千坂式食療法が出来るまで

千坂式食療法ヒストリー

一般的に理論というものが出来るためには化学的な根拠を証明したりするものですが、千坂式はすべて提唱者でもある千坂諭紀夫の経験やそれを実践して下さった多くの方々の体験に基づいて理論が構築されています。
ここではどのように千坂式が作られてきたか、幼少期から段階的にご紹介します。

幼児期から高校生まで

千坂諭紀夫(以下「千坂」という)は昭和14年1月に東北の片田舎に6人兄弟の末っ子として生まれ、生後間もなく父親を亡くし、母親の手で育てられるが、兄弟も多く、母親一人では全員を育てることが困難であったため、2歳の時に里親のもとに預けられることになりました。

そこで千坂は幼年期から高校卒業まで生活することになります。生活は質素で盆と正月くらいだけ塩でしめた魚を一切れほど食べることが最高の贅沢で、食事のほとんどが野菜の煮物などと麦入りご飯に味噌汁、梅干や漬物といった粗食で育ったのです。

上京後

高校卒業後、大学に進学するために上京、そこで田舎では食べたことのない、「ラーメン」、「チャーシュー」、「まぐろの刺身」、「たっぷり砂糖の入ったぜんざい」(田舎では塩あんを食べることがほとんどだった)や「おはぎ」、「大福」等と出合ってしまったのです。都会でしか味わうことの出来ないそのような食べ物は最高のご馳走だったのです。千坂は特に「あんこ」のような甘いものには目がなく「ぜんざい」、「甘~く煮たうずら豆」が大好きで毎日のように大きなどんぶりで食べていました。そして、いつしか甘いもの中毒になっていったのです。
その頃は、田舎に住んでいた時のように野菜の煮物などはほとんど食べなくなり、甘いものを中心に、千坂式で考えるととても陰性で酸性の食品に偏った食生活をしていました。

それから数年後

そのような食生活を続けて数年が過ぎた頃には、体のあちらこちらに不調な症状が現れてきました。立ちくらみがして皮膚はガサガサになり、重い便秘、偏頭痛、慢性疲労から腰痛、動悸、息切れなどの症状が次々と現れ、20代になったばかりの若々しさとは無縁なほどの悲惨な状態になっていました。

それでも20歳の若さで結婚し、生活を守らなければならないという責任感から仕事を続けていましたが、体調は悪化する一方でその原因もわからずにそのままの食生活をしていると、夜も眠れない日々が続くようになり、肝臓の辺りは虫がはっているような感覚を覚え、腰痛がひどく仰向けには寝られないくらい体調は悪化し、血尿まで出ていました。

このままでは、仕事も続けられない、そうすれば経済的にも生活が出来なくなってしまうという危機感、家族を守ることが出来ない、体が思うようにならない苛立ちと不安、いろいろな気持ちが交差する中で病院へ駆け込んだのです。

絶望の底へ

そこでの検査と診察の結果はまさに絶望の底に突き落とされるものでした。診断の結果は『狭心症』『心筋梗塞の始まり』『糖尿病』『肝硬変の初期段階』『膵炎』『腎臓病の初期段階』など数えられないほどの病名を付けられ、薬の併用は副作用の問題もあって出来ず、医師からは現代医療では治療の方法がないと告げられてしまったのです。それでは納得出来ないと他の病院でも診察を受けましたが結果は同じで、このままの状態では余命数年という診断を下されたのです。
まだ、20代前半の青年にはその宣告はあまりにも衝撃的で、『これからどう生きてゆくのか、治療方法はないのか、あと何年生きられるのかという不安で仕事も手がつかない状態になってしまい途方にくれてしまった』そうです。

一筋の光に出合った

そのような絶望の底に突き落とされてからも、何とか治療方法はないかと医学書をはじめ、様々な書籍を読みあさり、鍼灸師や整体師、その他さまざまな治療師の先生方との出会いがありましたが、なかなか自分の病気をすべて治せるという確信のもてるものには出合いませんでした。
それでもあきらめずに探し続けているとある日、東京大学名誉教授、東京大学医科学研究所第4代所長、都立駒込病院院長を歴任し玄米菜食を説かれていた二木謙三博士の『病は食の過ちにあり』という言葉に出合い、その言葉がまるでこれから自身が歩む道を示すかのように一筋の光となっていったのです。

光の導くもの・・・・それが玄米食だった

その二木博士の言葉によって、千坂は今までの食生活が過っていたこと、食の過ちによって自分がさまざまな病気になったこと、正しい食事にすれば体は自己免疫力によって癒されていくということを悟ったのです。それは 千坂 にとって人生の光となり、自分が導かれる運命であったと後に語っています。その光が『玄米食』だったのです。

一変した食生活

運命ともいうべき『玄米食』をすべく、 千坂 は玄米を炊くことの出来る圧力鍋を探し回りました。当時は玄米を炊くための優れた圧力鍋はあまり出回っていない時代でしたので、人から人の伝手を頼りにようやく待望の圧力鍋を手に入れたのです。すぐに炊いてはみたものの、見よう見まねで始めたために、最初はなかなか上手くいきませんでした。焦げてしまったり、柔らかくなりすぎたり、当時は今と違い圧力鍋に直接玄米と水を入れて炊いたので長く炊けても50分位が限度で、今の千坂式のように玄米専用の土鍋を圧力鍋に入れて、何時間も炊くということはありませんでした。
それでも病気を治したい一心で玄米を食べ続けていったのです。まさにそれまでの食生活とは180度変わったものになっていました。
そのような玄米菜食の生活を続けていく中で、いろいろな食の先生方の教えを学び実践し、自らの体で体験を重ねていったのでした。その中には現在、とてもポピュラーになった食養のグループも含まれていました。当時はそのグループの創始者のお弟子さんたちも活躍されていて、即実践出来る食事療法を学ばせていただいたのです。

病気が一つずつ消えていった

そのような食事療法を実践する生活をしていくと、あんなに苦しんでいた腰痛や息切れ、動悸などが消えていくのにことに気づき、この食事を続けていけば必ず元気になれる、健康を手に入れることが出来ると思うようになり、ますます熱心に実践するようになっていったのです。
その頃から、自分の経験を周りの方々にお伝えする機会も増えてきて、その方々もそれぞれに良い結果が出せる体験をするようになっていました。
月日が流れ、体調も劇的に回復し千坂はこの食養を広めることに大きな価値を見出していました。

あるところまで回復した体調も・・・

しかし、あるところまで回復した体調もこれ以上変化がない!何かが違うと思うようになっていきました。その食養を同じように実践していた千坂の仲間の方々や他の実践している人たちの様子を見ていても、熱心に実践している方々ほど壁にぶつかっているようでした。顔色が悪くなる方、覇気が感じられないような方も多く見受けられました。病気もあるところまで回復するのですが、完治には至らないという方もやはり多くいらっしゃいました。
その様子を見ていた千坂は、すばらしい食事法なのになぜそうなるのだろう?何か欠点があるのだろうか?という疑問が大きく膨らんでいったのです。

一つ一つの積み重ねが千坂式因果法を完成させた

そのような疑問をもちながらも千坂は自らの健康を回復させるため、学んできた食養の実践だけではなく、それぞれの食材を見つめなおし、その料理方法から食べ合わせまで様々な角度から食べ物と体に起きる現象の因果関係を追求していきました。
どのような食べ物が血液をより濃くしてくれるのか(免疫力を上げるのか)、薄くしてしまうのか(免疫力を下げるのか)、どのような食べ物が血液をきれいにしてくれるのか、汚してしまうのかということを体に起こる現象からまとめあげていったのです。それは膨大な量のデータの積み重ねでしたが、自分の体や周りの方々に起きる現象を分析していくことで、少しずつその法則が見え、たてた仮説の裏付けをとるといった繰り返しが千坂式食療法の基本になっている千坂式因果法を確立することに繋がっていったのです。

実践と試行錯誤から独自の理論を確立されていった

完治する喜び

千坂式食療法を試行錯誤で取り入れて実践していくと、ある程度までで先が見えなくなっていた体調に変化の兆しが見られ、病気の問屋と言われ、病院ではもう治らないと宣告されたほどの病がみるみる改善していったのです。これは千坂にとって人生最大の喜びであったに違いありません。千坂は、それまでの経験をもとに病気で苦しんでいる多くの方々にこの方法をお伝えしていくことを生涯の使命と悟り、それから精力的に千坂式食療法を全国に普及していくことになったのです。

千坂式を広め始めた初期の頃

最新の千坂式をお伝えしたい

千坂式食療法の基本になっている食べ物と体の関係をまとめた千坂式因果法が確立されていく過程で、それを千坂自らが実践し体験していきました。

また、今までと同じようにその体験をいろいろな方にお伝えし、そのお伝えした方々が実践して結果を出すことで、更に千坂式因果法は進歩しています。これでいいと満足せず、常に追究し続け、今現在も千坂式因果法の食べ物の分類について実戦データをもとに見直しをして、最新の情報をお届け出来るようにしています。
今では私たちの血液が食べ物とどのような関係にあるか、それぞれのデータをもとに解説することも出来るようになっています。
食べ物によって私たちの血液が作られ、その血液によって細胞が生かされ、維持されていくという体の基本を踏まえ、体が本当に必要としている正しい食べ物を見極め実践することで、病気には縁遠い心と体を作っていくことが出来るのです。
究極は千坂式食療法によって実践した人々が元気で生涯を全うすることを目標として日々進化し続けています。